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Photographer Takashi Iwamoto Blog

ブログ | アフリカ フォトグラファー 岩本貴志|ドキュメンタリー ビデオ / 写真 撮影

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旧信越本線、碓氷峠、廃線ウォーク、66.7‰の急勾配を辿った

更新日:2023年7月3日

筆者紹介写真

このブログの筆者は、アフリカで活動するフォトグラファー。


日本滞在中に仲間と出かけた1泊2日の旅についてご紹介します。



前ブログ星空を求めて、東京から1泊の旅は、あらぬ方向に話がそれてしまったので、改めて前回書こうとしていた事を書く事に致します。


前ブログ前半からの続きになります。




秋の夜長といえど3時過ぎからでは星が見られた時間もそう長く取れず。


物足りなさは残ったものの、おっさん一同と若者は、満天の星空を満喫したのであった。



旧碓氷峠鉄道施設


夜が明けてからグダグダと仮眠を取り昨夜の残り物で腹を満たし、一同が向かった先は国重要文化財にも指定されているという旧碓氷峠鉄道施設、昔々鉄道の走っていたトンネル群。

下にその時の写真をいくつか紹介する。

級碓氷峠のトンネル群

紅葉の降りしきる中、若者は歴史を偲びトンネルにカメラを向けた


ここは旧信越本線跡地、碓氷峠の横川、軽井沢の間。


開業されたのは明治26年(1893年)このブログを書いている今から127年前の事。


昭和38年(1963年)に新線に移行するまでの70年という結構長い期間運用されていた。


新信越本線は新幹線の開通と共に平成9年₍1997年)に廃業。


新線の運用期間は34年間と旧線の70年の半分にも満たず結構短い。

この場所は日本の鉄道史では特別な場所、国鉄、JRの鉄道網の中で最も勾配の強かった場所だ。



傾斜66.7パーミル


傾斜は66.7パーミル(‰)。66.7/1,000という事で、水平距離1,000メートル進むたびに66.7メートル登るという急勾配。


なぜこんなにも急勾配が必要だったかというと、横川、軽井沢、11.2キロメートルの区間の標高差が553メートルと大きいため。

碓氷峠と同程度の傾斜と標高差の、奥多摩周遊道路

この碓氷峠がどれぐらいすごかったかというと、東京都にある奥多摩湖から奥多摩周遊道の風張峠₍1146メートル)に登るのとほぼ等しい。


こちらの峠も碓氷峠とほとんど一緒の標高差563メートルを11キロの区間登りつづける、最大勾配は70‰

車で通れば大した事は無いが、自転車だとそのすごさを十分堪能出来る。



これと同様の傾斜を鉄道が上り下りするとは、かなりすごい事だと感じる!

自転車好きでもある筆者は、奥多摩周遊道を自転車で行った際、坂に敗北、休憩を取らずには登れなかった。


箱根の登山鉄道はさらに急な80パーミルの坂を登るが、もはや特殊な登山鉄道。

こちら新線になってからの碓氷峠は、それと大差ない急坂を普通の列車が上り下りしていたのだ。



旧線に採用されていたラックアンドピニオン、アプト式

旧信越本線、この66.7‰という急勾配を克服するために、特殊な方法が用いられた。レールとレールの間にギア₍ラック)を敷設し、そのラックと車両に組み込まれたギア₍ピニオン)同士を嚙まし、列車のすべりを防いでいた。


ラックは3列に120度ずつずらして設置され、常に列車のピニオンとガッチリとかみ合う方式が採用されていた。この方式をアプト式という。


大宮の鉄道博物館には、当時この場所を走っていた電気機関車ED40とアプト式のしくみが実物と共に事細かく説明されている。


このアプト式、速度の制約やら、時々ラックの歯がが欠けたりするのでその点検、補修そして油さしやらと、メンテナンスは非常に大変だったそうな。

新線になってからはアプト式ではなく一般の路線と同様、車輪と線路の粘着力だけに頼ったものを採用した。


新線も同様の66.7‰、当然ながら坂があまりにも急すぎるので一般の列車は単独では碓氷峠を通る事は出来ない。


ここは、急勾配を安全に上り下りするために、専用設計された電気機関車EF63重連にし、峠を行き来する列車に連結して勾配を攻略していたのである。


旧碓氷峠を歩いて辿れる道、アプトの道


旧信越本線、今ではレールは取り払われてしまっているが、トンネル群は当時のまま残され、遊歩道として一般に無料公開されている。


その線路跡地の道はアプト式にちなんで「アプトの道」という。

今回はこのアプトの道を辿った事について思い出しながら書いていく。

旧碓氷峠、アプトの道、遊歩道トンネル

公開されているトンネル内は十分照明され、きれいに整備されている

「アプトの道」周辺にはいくつか無料駐車場が設置されている。


今回は国道18号線に隣接する碓氷湖パーキングに車を止め「アプトの道」の散策を行なった。

旧信越本線、横川、軽井沢の区間には山岳地帯を攻略するために急勾配に加え、26のトンネルと18の橋梁が建設された。


この、アプトの道を進むと、それらのトンネルをくぐり抜け、橋梁を渡たり、当時鉄道が走っていた場所をそのまま辿る事が出来る。

国の重要文化財に指定されているだけあって、トンネル内は非常にきれいに整備され、照明も十分に点灯されている。


家族連れで、小さな子供がいても安心して楽しめる。

旧碓氷峠、めがね橋

第三橋梁、旧信越本線最大の橋梁 長さ91メートル、高さ31メートル

トンネルをいくつもくぐりながら旧路線を登っていくと、有名な橋を渡る事が出来る。

通称「めがね橋」と呼ばれるレンガ造りのアーチ橋。


めがね橋は、全長90メートル、高さ31メートルの日本最大のレンガ製のアーチ橋だ。

旧碓氷峠、めがね橋、200万個のレンガの重量感

この橋の建設にはレンガを200万個使用したという、下から見るとその重量感に圧巻される


このアーチ橋、すぐ下から見上げてみると、その重量感に圧巻される。


明治24年(1891年)着工、2年間かけて明治26年(1893年)に完成。

使用したレンガ数は200万個という。


すごい量だとは分かるが、いまいちイメージがつかめない。


他のものと比較すると、だいたい中型のコマーシャルジェットの部品点数に相当、もしくは玩具のレゴの中最も巨大な「ミレニアム・ファルコン」の部品点数が7,541点、これを265箱分。いまいち分かりずらいかな。

有名な建物として、東京駅に使用しているレンガの合計数がおよそ900万個で、この橋の4.5倍。レンガの数は東京駅の1/4.5という事になる。


ちなみに東京駅の建設が本格化したのはこの橋が完成した15年後の1908年の事。この橋の歴史の古さがうかがえる。

旧碓氷峠、アプトの道をたどる、トンネル

第三橋梁からさらに進み終点に近づくと、トンネルが何かし暗く感じてくる、霊の気配?


明治から昭和にかけて鉄道が駆け抜けた70年、そして廃線されてから現在に至るまでの時の流れ。


遊歩道を歩んでいくと、積み上げられたレンガから、その間の激動の日本の近代史を感じ取る事が出来る。

遊歩道の終点はもうすぐだ。

旧碓氷峠、アプトの道、最後のトンネル

遊歩「アプトの道」最後のトンネルを振り返って

ここまで来る観光客はあまり多くないのか、場の雰囲気がガラッと変わる。

この場所は70年ほど前、土砂災害が起こり多数の方が亡くなられてしまったところでもある、慰霊碑も立っている。


今でも、事故で亡くなられてしまった方々の霊が成仏されずに、さ迷っているのかもしれない。

新碓氷峠に残るレール

旧熊野平信号場より新線の線路上、軽井沢方面を眺める


最後のトンネルを抜けると「アプトの道」の終点、旧熊野平信号場に辿りつく。


ここで新線と合流。新線といっても廃止されてからすでに23年の時が経過している。



新線のレールはそのまま残され、さび付いてはいるものの、今にも列車が走って来そうな雰囲気。


今にも重連のEF63機関車の唸りが聞こえてきそうだ。

筆者は90年代に一度、軽井沢から横川へと下った事がある。


乗ったのは普通列車、

季節は春、窓を全開にして前方で頑張る機関車(EF63)を眺めながら、日本一のJR線急勾配を堪能した。


窓の開かない特急では味わえない醍醐味。


列車は軽井沢駅を出発し、急勾配に差し掛かると、前方の機関車からはものすごいうなり音。


機関車EF63は、後ろにつなげた普通列車の重量を受け止め、ものすごい熱を発しながらゆっくりと坂を下って行った。


その熱は後方の車両に乗っている筆者にも届くほど。


電気機関車周辺は熱気で空気はゆらゆらと陽炎が出ていた。


急坂で列車のスピードを一定に保つため、発電ブレーキからは膨大な抵抗熱が発生、その熱を素早く逃がすために設置された強力な送風機の音が響きわったていたのだ。


峠に特化したこの電気機関車EF63、「峠のシェルパ」とも呼ばれていたそうだ。

今では経験の出来ない鉄道風物詩となってしまった。


写真左手のトンネルが旧線、右手の二つのトンネルが新線、この先にもトンネルはいくつも続くがアプトの道はここで終点。


前ブログに掲載しているトンネルの写真はこの先の旧線トンネルのうちのひとつ。

旧線時代、ここには熊野平という駅のあった場所で、昭和38年の新線に移行するまで上下線の交換場所でもあった。


横川から坂を上ってきた下り列車は、軽井沢から坂を下ってきた上り列車と、この熊野平駅で交換、更に坂を登って行き軽井沢駅に辿り着く。


当時、電化区間はそこ軽井沢で終わり。

その先は蒸気機関車のD51が列車を牽引して行った。


考えるだけで鳥肌が出てきそうな鉄道好きにはたまらない旅路だ。

そういう筆者は鉄道好きなのだ。

という事で、旧熊野平信号場から引き返し散策を終えた一行は、横川で釜飯を頬張り、家路につくのであった。

おわり ■

 

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